叔母をみとる 第10話 義叔父の死

2012年7月1日に叔母が亡くなり、その葬儀の後、葬祭費用や病院代も支払えないという義叔父に金を渡した。そこで、私は義叔父への連絡を途絶えた。叔母の死をもって、全て終わったと思った。寂しいけど、家族もそれで一区切りと考えた筈である。

あの夏の家族旅行はとても楽しかったな。そんな素敵な時が過ぎ、秋を迎えた。

民生員の方から、突然電話があった。義叔父が歩行困難になり、近くの病院で検査を受けた。明日、結果がでるので来て欲しいという。

義叔父には、彼の家から歩いていけるところに、従兄弟が息子一家と小さな工場を経営しながら暮らしていて、かねてより親しくしていると聞いていた。民生員にその事情を伝えたが、義叔父が私たちへのコンタクトを要望しているということで、必ず来る様にと呼び出された。

翌日、私は弟と病院へ向かった。

そこは、暗く、誰もいない、不思議な印象の病院だった。確か叔母も最初はここにかかっていたのだな〜。と思いながら見回していると、すぐに医院長という女医さんに呼ばれて検査結果を伝えられた。肺癌だった。だいぶ悪いようで、どこか大きな病院に早めにいって治療を進めるようにということだった。診断書とレントゲン写真を受け取り、病院を後にした。前を国道が通り、すぐに交差点がある。そこを左に折れると商店街にある義叔父の店がある方の家だ。

その交差点で民生員が自転車を停めて立ち話をはじめた。

「いずれにしても今後は、一人では置いておけないのでお宅での自宅介護になるでしょう」と、我が家での自宅介護を要望された。私たちでなんとか連れて帰る様にと説得され、自分の業務はここまで、ということだった。しかし、もうこれ以上は、私たちでは無理だと思っていたので、義叔父の身内への連絡を取る様に頼んだが、それは私たちの方でするようにということだった。義叔父が自分の親族の連絡先を教えてくれるだろうか。それを思うと途方にくれた。

この日は、お弟と両側から義叔父を担ぐ様にしてコンビニに行った。突然のことで何をしていいのかも解らず、食べ物やなんかを少し買って、義叔父の家に帰ってきた。

義叔父から、ここ数ヶ月の経緯を聞いてみた。急に歩行困難になってきたのを見かねた近隣の方が民生員に頼んだようだ。

今日のところは、とりあえずは大丈夫かと確認をして帰ってきた。弟もかなり困惑していて、疲れた顔をしていた。という印象が残っている。

「急に歩けなくなって、隣の幼なじみの方に助けてもらったらしいよ。検査の結果は、肺癌、それも結構悪いようだよ。民生員は引き取って介護する様に!ってことだった」家に帰ってきて、伸さんや母に状況を伝えた。

「いやいやそれは、無理!じゃあ、どうする???義叔父の親族とかの、連絡先はわからないかなー?」

話を聞いた二人も、口々に同じようなことを言っていた。

叔母が癌になった頃、すでに義叔父も発症していたのだろう。伸さんはそういって、しばらく様子をみるようだった。

父の死後、このお金をくれっていう話が出てくる前までの義叔父はとてもやさしかった。もともと、やさしい人なのだと思う。しかし、叔母は再婚であり、姑の手前、父もあまり来ないでくれと言われていたので、叔母の独身時代とは付き合いが違っていた。だから私自身も義叔父のことをあまり多くは知らない。

そして3日後、10月に入ったある日、救急隊から連絡が入った。

「今から、義叔父を救急搬送します。病院はこちらで決めて良いですか?」

「いえ、江戸川区の病院は我が家からは遠いので、中間にある墨東病院にお願いします」

私は受話器を置いて墨東病院に向かった。

3日で、義叔父は起き上がれなくなってしまったようで、整形外科に運ばれた。内科の先生もついてくださり、状況を確認していく。

義叔父は、末期の肺癌で、骨転移した結果、背骨が損傷して寝たきり状態となったそうだ。

手術しても余命を若干伸ばせるかどうかで、おすすめはできないという。オーダーで専用のコルセットを作って背骨を支える方向をすすめられた。

大変なことになった。考える間もなく私たちが動くことになってしまっている!

父の本家や親族にも事情を説明するため連絡を取った。

「放っておくより仕方ないだろう。向こうにも親戚がいるんだから」と、連絡が来ても動くな。と重々、忠告を受けた。

しかし、そうは言っても、病院からは電話がかかってくる。しかもとてもいい先生だった。

どうしよう。

入院したとき、私は叔父から鍵を預かったので、その週末、伸さんと江戸川に向かい義叔父の家中を確認した。通帳が見つかり、幾ばくかの年金が入っては土地の返済で引き出されていた。あとは何もない。

ずっと以前に4千万の入金があり、そこから毎月、少しずつお金が減っていき、しまいには生命保険も解約され、本当に一銭も無くなっていた様だ。この家を切り盛りしていた姑が亡くなり、叔母が持っていたお金で母屋を建てたと聞いているが、その時期とこの4千万の入金時期が重なるな〜。

・・・おばちゃんが持っていたお金は株券だったとも聞いている。要は全財産を義叔父に提供して、家を建て、生活も賄ってきたということだろうか。とにかく、商売での入金など利益が、随分前からないのだ。仕入れをしても売れない様で赤字。

私がそんなことを考えていると、伸さんが電話帳らしきものを見つけた。そこには近くに住む親族の電話番号もあった。

「この2軒の家のこともあるし、ここから先はそちらでお願いしたいのですが・・・」

現状を伝えたが、そっちでやって来れと言う返答。少し食い下がったが、義叔父の親族は義叔父の面倒を見られないという。

誰もあてにはならないと判断した伸さんは、母屋の重要書類を預けてあるという不動産屋に行こうと言い出した。その不動産屋では権利書などは預かったまま、放置していた様で事情を言うとすぐに返却してもらえた。

その足で売却等も手掛けている不動産屋さんを訪ね、相談してみた。簡単には売れそうにはないということだが動いてもらうことにした。

数日後、内見してもらい、母屋は販売、お店のある方は賃貸ということだった。それにあたり、まずは賃貸する物件(お店)の清掃を入れることになった。

その頃、病院から最初の連絡が来て、コルセットをオーダーした。

バタバタする日々の中、しばらくして、不動産屋さんから、これは難しいかも!という連絡がきた。要は業者取引での早急な取引が難しいということらしい。

今度は、私の自宅の土地を買った時に動いてくれた私たちの地元の不動産屋さんに相談してみた。私は週に2・3回は病院の義叔父のところに何だかんだでいく様になっていた。

そして義叔父に、先生から余命を告げることになった。義叔父は年が越せるかな。と思っていた様だが、医師ははっきりと「いえ、年内でしょう」と告げた。義叔父もショックだっただろう。会うたびに随分と、憎まれ口を聞かれ、奴隷の様に扱われ、私はそんな義叔父が大嫌いになっていった。喧嘩もした。

さて地元の不動産屋さんは、義叔父の余命が短いことを知ると、遺言書の作成を提案してきた。当然、私たちからの義叔父の説得は容易ではなかった。しかし、このまま義叔父が亡くなると、借財だけが連帯保証人である私にのしかかる。そして不動産売買もできないままになってしまうという。

だが販売するには母屋の片付けが必要だったり、お店の方は賃貸も難しいとの見解だった。売買がぐずつく中、お店の方の地代や母屋の方の返済、病院代・・・、経費は思ったより嵩んでいった。

何か手はないものかと江戸川区の役所などを再度、伸さんが運転して連れて行ってくれた。しかし義叔父が養子であるため、本ケースは異例で、他に相続人があるのかどうかの確認ができず、NGOでも取り扱えない様だった。

要するに・・・

私たちは血縁者ではないので、とても義叔父の死後の財産・借財の管理などできないし、その権利もないので江戸川区のNGOに参加している弁護士の方に成年後見人を依頼申請しようと思って、いろいろなところを紹介してもらいながら次々と巡っていった。

しかし義叔父本人の戸籍がどうも良くわからないところがあるという事がわかってきた。義叔父は生まれるとすぐに養子に来た。と聞いているが、どこから来たのか?義叔父から聞いていた話と戸籍が違う。また義叔父より年上の義叔父の親族に確認したところ、義叔父が聞かされていた話と真実とは違う事がはっきりした。私が義叔父の血縁者だと思っていた人たちは、義叔父の父方の親族だが、これは血縁はないそうだ。

義叔父は養母の弟の結婚前の彼女との間にできた子らしい。義叔父もこのことは知らなかった様だ。こちらの母方の親族は私たちでは名前もわかりそうになかった。相続の面からは妹にあたる血縁者があるらしい。この時代の後見人制度では、この妹にあたる人の許可なく、後見人制度は使えないらしい。でも義叔父に聞いても「そんな事作り話だ。お前等は何

言っているんだ」と怒るばかりで、その人が誰なのか、どこに居るのかも全くわからなかった。私と夫の伸さんは多忙極めていった。

義叔父も何かひとつ書類を取るにも私は血縁者でないので、義叔父の委任状が必要になり大変そうだった。これに義叔父も観念したのか、不動産屋さんのご尽力で、司法書士さん等を義叔父に紹介してくださり、遺言書は正規のものとして完成した。

これによって家を販売できれば、借財は返せる。という目処が立った。でもきちんと販売できなければ、逆に借財だけがのしかかると言うことでもある。

11月に入ると、病院から義叔父の転院を促される。ケースワーカーがいろいろ探してくださり、金町に転院することになった。寝たままなので寝台タクシーと言うので向かうのだ。

その頃、義叔父の店にあった町会の有線の移動を頼まれた。義叔父が長々、会長をやっていたので有線も義叔父の家にそのままになっていたのだ。この頃、町会ではいろいろ噂になっていたことだろう。

金町の病院に寝台タクシーと伸さんが運転するマイカーと2台で向かった。人生終盤の方々が集まる病院らしく、やはり暗い感じがした。私は病室で「私の家からだいぶ遠くなるから今までみたいに来られない。親族に来てもらったほうがいいよ」と義叔父に話をした。義叔父は黙ったままだ。しばらくして「帰るよ」と言うと、押し黙っていた義叔父が「ありがとう」と、私と伸さんの後ろ姿に、はっきりと言った。

私はびっくりして振り返った。

私は、駐車場の横の公園の入り口の手すりにヒョイと腰掛、伸さんを見上げてゆっくり目を合わせた。涙が溢れてきた。

それから15日後、義叔父が亡くなったと病院から連絡が入った。

私、身体を壊してしっまたり、、、中々、アップできずにおりました。
ペースは遅いですが、完成できる様に進めていきますので
同じ様な立場に立たれた方は参考にしてください。

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    どんどん大きな社会問題が浮上していく中で、クリエイター集団の「私たちにできること」をアイディアとして考えていく「仕事のアイディア」では、いくつかのビジネスプランニングが生まれています。デザイン力・企画力・技術力・長年培ってきたノウハウを、この小さい会社の経営者が全ての方に向けて公開していきます。
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