叔母をみとる 第11話 他家の葬儀を行う
ご遺体の引き取り、葬儀、埋葬。。。
さて、他家だし、どうしたらいいのだろう。お寺は???、20年位前に父に連れられて行った事があるけど、沼津の方だったと言うだけで名前も場所も定かではない。
何もわからないまま中学の同級生が継いでいる葬儀社に問い合わせをした。
父の葬儀もお願いしたところなので、我が家のことも理解してくれていて、快く引き受けてくれた。
結局、連絡先のわかる義叔父の親族は、同じ江戸川区に住う従兄弟の方だけだったので訃報を知らせ、他の親族への連絡をお願いしたのだが、連絡する人はいないと言う。また葬儀も私たちの方でして欲しいとのことだった。
私は葬儀社のリムジンでご遺体を引き取りに向かった。何とも言えない気分だった。悲しいのだが、寂しいわけではなく、肉親や親しい方での訃報で感じる気持ちとは何かが違う。今まで経験したことのない不思議な気持ちだった。
会計を済ませ、先生に挨拶をして、、、。葬儀社から「後は車の中で待つ様に」と言われた。しばらくすると、きれいになって旅立ちの姿に整えられた義叔父が車に乗せられてきた。葬儀社は本当によくやってくれていた。
さて、彼が言うにはご遺体は私の家に安置してはならないのだという。私たちの家は、あくまで夫を中心とした家である。私は両親と一緒に暮らしてはいるが、本来は私は嫁にいったもの。また両親自体も義叔父の家のものではない訳だ。義叔父は叔母のふみ子の嫁ぎ先なのだから。
あくまで喪がかかっているのは義叔父の家、私たちからは他家になるのだ。
そこで、一時安置所に安置するという運びになった。それは江東区にあり、私も子供の頃から知っている通り沿いにあった。こんなところに、こういうところがあったのだ!と何とも不思議な気持ちになった。
ここで通夜をして、出棺になる。
要は、喪主のいない他家の葬儀を行う形である。こうしないと私たちの方に喪がかかってしまうというのである。
江戸川の火葬場には夫の伸さんと向かった。そこに義叔父の従兄弟とその息子さんが来てくれて大変助かった。義叔父の従兄弟という方は義叔父よりいくつか年上で電話でも中々話の要領を得ないところがあったが、この息子さんは私たちと同世代だったので、この方と、火葬を待つ間、いくつか重要な話をすることになった。
「私たちはお寺もわからないのですが、納骨はどうしましょうか?」
お墓は元々、沼津方面のあるお寺に義叔父と従兄弟は隣り合って墓地を持っていたそうだ。義叔父の養母である先代が、義叔父とこの従兄弟の方に墓地を建ててくれたそうだ。この2家は、やはり以前は交流が深かった様だ。
しかし、歳をとってきたので遠方までのお参りがしずらくなり、従兄弟の方は墓地を近隣に置き換えたそうだ。その時、義叔父と大喧嘩になってしまいそれ以来、付き合いを途絶えたそうだ。その後、お寺の方でも住職が不在になったとかで、義叔父もお寺との縁はなくなっている様だとのことだった。
・・・そういえば、叔母のふみ子がお寺に連絡がつかないとか行っていた事があったな〜。と思い出した。
そういう事情で、埋葬する場所は探すよりないということになってしまった。
この従兄弟の方は、義叔父の養父の弟の子供だった。幼い頃に戦争で父を失い、母親が女で一つで二人の男の子を育てていたそうだが、母親の再婚が決まり義叔父の養父のところに引き取られれてきたそうだ。
しかし、その後、義叔父の養母の弟が雇っていた女中さんとの間に子供をもうけてしまい、その子供を養子にする事が正式に決まり、従兄弟の方は母親の嫁ぎ先に行くことになったそうだ。引き取られた最初の頃はゆくゆくは養子に入ることになると言われていたそうで、その当時の悔しい思いが残ったまま、5歳くらいで数年暮らしたこの家を出ることになったという。元々、因縁のある二人なのだろう。
「母屋と店の方という2つの家、それに関わる借財の始末をどうするか?なのですが、一緒になって進めていただけけますか?」
その頃、あまり生活が芳しくなくなったというこの従兄弟の方のご長男夫婦が、家に戻ってきたとかで、弟であるこの息子さんは苦労が多い様だった。だから借金の返済はできないし、時間的な余裕もないということで、家の処分も含めて、もう一切関われないから私たちの方でして欲しいとのことだった。
「義叔父は養母の弟さんの子供だということですが、その弟さんの連絡先はわかりますか?義叔父には血の繋がった兄弟はいるのでしょうか?出生について知っている事があったら教えて欲しいです」
それはよく分からないけれど・・・。
「あの家には女の子がいたはずで、それがあの家の本当の子だったと思う。でもその子はどこかへ養女に出してしまって、義叔父を養子に入れたんだよ」と従兄弟の方が教えてくれた。
でも、自分の子をわざわざ養女に出してまで、養子を入れるなんて事があるのだろうか?そもそも5歳くらいの時の記憶だから、従兄弟の方も何か間違えているのかもしれない。しかし関係している女児がいた。ということはわかってきた。
そんなところで私たちは、義叔父の骨を拾うことになった。
遺骨も、我が家へは持ち帰ってはならないそうで、遺骨となった義叔父を抱えて義叔父の家に向かった。
裏木戸から入ると、ひっ散らかった部屋の大きな仏壇の前に台座が置かれ、ふみ子の遺骨が安置されたままになっていた。その隣に義叔父の遺骨を置いた。
ふみ子が逝ってまだ間もないというのに、義叔父は後を追う様に逝ってしまった。
二つ並んだ遺骨に手を合わせて、近隣の人に無事葬儀は済んだと挨拶をして、その日はそこを後にした。
この後、どこから始めればいいのか?ハンドルを握る伸さんも、隣のシートに沈む私も、頭がいっぱいで無口になっていた。
家に帰ると私は、新しいノートを手に取り、伸さんに相談しながらやらなくてはいけないことを列挙していった。
ここで大きな安心材料となったのは、遺言書が開示されているので、私が相続人だということだ。それによって死亡診断書と遺言書と私の身分証明書があれば、何かを申請したりといった手続きができるのだ。
家を売れば、返済もできるはず。でも家を売るには、他に相続人がいるのかどうかを確認しなければ進められない!
まずは遺言書作成に力を貸してくださった司法書士の方に依頼して、義叔父の戸籍をまとめてもらうことになった。
この頃、何度も江戸川区役所や借財のある信用金庫に仕事の合間をぬって足を運んでいた。
相続の書類を整えられれば、家は販売できるのか?ということを遺言書作成にご尽力くださった地元の不動産屋さんに相談に行った。
しかし、そんなに古くないものであっても、みんな買い手は好みのものを一から建てたいから家というのはそのまま購入してもらうのは難しいらしい。母屋をそのまま購入する人を見つけるのは難しいだろうという。その場合は、業者間取引になる。このお願いしている不動産屋さんから業者へ、または業者が購入依頼を申し込んでいる不動産屋さんを挟んでの業者間取引になる可能性が高い。
そうなるとお客さんからお客さんへという通常価格の半分位まで下がってしまう。要は業者の仕入れ値より安くないと買ってくれないのだ。
叔父叔母のことで今までかかった経費をメモしていた小さいノートを持ってきて、これからかかり始めるだろう借財の返済などを足してみた。業者間取引だと1,000万を超える赤字になるね。多分、納骨など分からないままのことも多くあり、まだまた負債は増えていきそうだし・・・。
もう一つの一階が店舗の古い家は、借地権だった。不動産屋さんはこちらは貸し出しはせずに、地主に返すしかないだろうということだった。
前の江戸川の不動産屋さんは賃貸しようとして掃除業者も入れた。でも今回の不動産屋さんは地主に返上という。答えは一つではないのだなと思った。
義叔父は少額だが年金が入っていた。国民年金だったので一時金を直近の身内なら受け取れるのだが、私は血縁でないので受け取れないまま死亡により年金が終了する。当月から母屋の借金返済・一階が店舗の古い家の地代、光熱費等の支払いが始まる。
まずケーブルテレビや光熱費の契約を解除した。機材の撤去もあり、伸さんが行ってくれたりして何とか進められた。
それに売るにしても片付けをある程度しないと内見もしてもらいえないということで、伸さんが先頭に立って何度もゴミ処分のため江戸川に通った。江戸川の2つの家はいずれも年寄り住まいで散らかっていた。ざっくり片付けるだけでも時間がかかった。
父方の親族からは、何で義叔父の親族に任せないんだ。と怒られながらも心配してくれていた。みんながお手上げ状態だったのだと思う。
時が過ぎても、亡くなった二人の遺骨の引き取り先は見つからない。私はこう言った親族のいない人を埋葬してくれるお寺を見つけ出して、そこに二人を安置することにした。
場所は非常に遠方だった。お骨は2つあるし、どうするのかと思っていたら、骨壺を郵送する箱やら、お布施の奉納先やら細かく書いた案内が来たので、その通りにして、伸さんと弟と3人で郵便局に行き、郵送した。お骨は郵送できる!のだった。これには驚いた。
後二つ大きな片付け物があった。
一つはこの家の大きな仏壇。もう一つは先代の頃に火事が続いたことから伏見稲荷から取り寄せて街角に置いていたという街の小さなお稲荷さん。これをあろうことか、先代が街角に不要になると店に中に祀ったのだ。これを後世も大事に引くついでいた。
助かったことに葬儀を頼んだ葬儀屋さんが仏壇は引き取ってお祓いしてくださる方を連れてきてくれた。
お稲荷さんは伏見稲荷に私が直接電話をして返すという形で奉納することになった。
こうして年の瀬が過ぎ、年末年始は毎年恒例となっている正月旅行。不幸があったので躊躇いもあったが少し骨休めも必要だとということになり、年末年始は温暖な房州でゆっくり過ごすことになった。
このとき私は、ここがドン底で、少しでも片付けなどを進めれば
やがては霧が晴れると思っていたのでした。しかし・・・