叔母をみとる 第12話 人生最大の危機


2013年は年明けから昼夜を問わず会社の仕事が忙しかった。

2月に一息ついた時、伸さんが「この間、甥と買い物に行った時に面白いサイクリングコースを見つけたんで、しのぶを連れて行きたいんだけ戸、行かないかい」と言うので、茶々丸を連れて出かけることになった。

森下から深川に向かう通りに掛かる橋の遊歩道を降りていくと、ずーっと遊歩道が続いて私たちが最初に住んだところなどが見える。しばらく行くと広く開けた場所もあり、他にも家族連れや犬連れの方がいて、茶々丸をお遊ばせた。

またそこから先に向かうと、義叔父の遺体を安置した場所、もっと先は、私の両親が住んでいたところ。この辺りは最初の犬であるゴン太郎ともよく歩いた道が横を通る。

そう思っているうちに人気がなくなり、伸さんはスピードをあげた。しばらく音が止まった様に、無言で自転車をこいていた。

すると、結婚してから今までのことが走馬灯の様に映像で頭の中を駆け巡り始めた。何なんだこれは・・・。とても言いようのない不思議な体験。はっきりと映像で、まるで自分の人生の映画の様に見えた。伸さんのプロポーズ・新婚の頃・家族で暮らすことになった頃・旅行・食卓・父の死の時・・・そして義叔父の死まで。かなりの長編だった。

帰る道すがら、私は伸さんに、この走馬灯の様な映画を見たことを伝えた。

「何だろう、これ?」

「そう何だよ、何だろうな?」

伸さんも同じものを見ていたのだろうか?

「こういうのって死ぬ前に見るっていうよね。私、死んじゃうんだのかな?」

「う〜〜〜ん、何だろうね」

と話しながら家に帰った。家に帰ってからも。この走馬灯の様な影像が気になってまた同じ話を繰り返してみたが、伸さんは「う〜〜〜ん!」と唸って黙っていた。

翌日からはまた多忙な日々が続き、そんなことも忘れていた。

チームみんなで行う様な一つの大きな仕事が終わると、また同規模の仕事が入り、一息つく間も無く、その仕事にかかることになった。先頭に立ったのは伸さんだった。

伸さんは何だか疲れているのか、胸のあたりの1点を指差して

「ここがチクッといたいな」と言った。

「え〜〜〜、何???何だろう???」と私が言った。

そんな心配もあったが日々の多忙さに追われて忘れていた。

その仕事も終わり、やっと一息入れたのは3月の末だった。

1年ほど前からだろうか、私たちは母方の親族から入ってきたある事業のプランニングを請負、積み重ねていたが、土壇場で親族に手を返され、経費支払いもされないという不利益を被っていた。そのため私たちはこれを新規事業に組み入れ、弊社で実行することにして、改めてプランニングを始めていた。

その日も通常業務の手が空いた中、この事業のクライアントへの見積もりなどを最終調整していた。

しかし、朝から伸さんは眠そうでぼんやりしている。

「調子悪そうだね。ここ痛いの?」と私が胸を指差すと、

「いや、そんなことないがな〜」という。

「でも今日は時間もあるし、ちょっと病院に行こうよ」と私が何度か言うと、

「じゃ、午後の診療で行くようにする」と伸さんも行く気になったので安心した。

昼食をとり、午後になっても何だか伸さんはボーッとしている様に見えた。

私が書類の作成に集中していると伸さんは事務所の席を外して住まいの方に行った様だった。

私は新規顧客への2度目のアプローチ書類ができたので、数字に強い伸さんに見てもらおうかと思ったが、まだ席に戻っていなかった。最初はトイレかな?と思っていたのだがだいぶ時間が経っている。

私も事務所を後にして住まいの方に見に行った。伸さんは自分の部屋にも、リビングにもいない!

母に聞いたら「トイレかな?」と言う。ずっとトイレにいるとしたら時間がすごく経っている。私は動揺しながらトイレに向かい、「伸さん、どうした?」と声をかけ、返事がないのでドアを開けた。

夫の伸さんがゴロンと廊下に倒れてきた。

慌てて救急車を呼んだ。向かいの掛かり付けの先生に来てもらう・・・。

愛犬の茶々丸が大慌てで伸さんのもとに駆け寄るのを制して、ドキドキしている間に救急隊がきた。伸さんの意識はない。そのまま救急車に乗り、手を握り、伸さんを呼び続けながら聖路加についた。

伸さんは聖路加の細い廊下の先に運ばれて行ったきりで、様子がわからない。私は何とか無事であることを祈るばかりだった。

どれくらいの時間が過ぎたのか、救急隊の方が戻ってきて後から先生がきます。と言って丁寧に頭を下げてくださり帰って行った。でも待っていても誰も容態を告げに来ない。

すると長い廊下から、ヒョコヒョコ歩いて伸さんが来た。

「どうしたの?しのぶ、大丈夫?」と言った。

何で一人で歩いて来られるの?と思ったが、

「伸さん、ダメだよ。すぐにお部屋に戻って」と私が言っただけで他には何も言えなかった。ただ彼は自分が運ばれたのかもわからずに、私を心配している。そう思った。

そのうち救急車の中で連絡していた従姉妹が来てくれて寄り添ってくれた。気がつくと、刑事さんが来て隣に座り、伸さんを発見したときの状況を聞かれた。目は開けていたか?とか、どう言う経緯だったのか?と、何度も聞かれた。

私は多分ちゃんと答えられなかったのだと思う。私はこの時点で伸さんが死んでしまったとは思っていなかったから、これが現場検証だとは思っていなかった。

「こちらに来てください」やっと白衣を纏った医師が来て小さな部屋に案内された。

「残念ですが、ご主人は亡くなりました。手を尽くしましたが発見されたときには既に亡くなっていたと思います」と言う。

「先生、何とか治しください」私は何度も、何度も、お願いした。

でも「お胸は血液で一杯何です。もう戻せないんですよ」と言われ、目の前が真っ暗になった。その後、その視界の暗さは戻らず、真ん中だけが見えて周りが暗いと言う状態が続くのだった。そんなぼんやりした頭の中で、さっき歩いてきた伸さんはいったいどういうことなのだろうかと、混乱した。

弟のところには警察から連絡があった様で、二人の甥と弟の嫁も来てくれた。

ちょうど2・3日前に甥がおばあちゃんのお金を持ち帰ったとかで、伸さんが母と弟たちの仲裁に入っていた。

「甥も成長して大きくなってきたことだし、弟夫婦には弟夫婦のやり方もあるんだから、おばあちゃんもそのつもりで、少し距離を持て」伸さんがそう母に言い聞かせていたことを思い出した。

私、誰にも頼れないんだな!きっと。

ただ漠然とそう思った。それが未亡人となった私の一番最初の頭に浮かんだ言葉だった。

伸さんの遺体は病理検査のため区内の警察に運ばれることになり、私は従姉妹に付き添われて雨の中、帰ってきた。

その後、中学の同級生の葬儀屋さんや、友達に連絡したり、仕事先に連絡したり、した、のだと思う。

この日は火曜日だった。

翌日、遺体引き取りのため警察に行くことになった。心細くて、どうしようかと思っているところに、母方の叔父が来てくれて二人で出かけた。

あの時ほど叔父の優しさに打たれたことはなかった。ありがたかった。

遺体が戻ってくると火葬されちゃうのが嫌で、週末に通夜と葬儀をすることにしてもらい、それまでの間、ずっと伸さんの横で眠った。その横で愛犬の茶々丸が伸さんをペロペロ舐めて、一生懸命起こしている。でも目覚めない。茶々丸はなお一層、起こそうとする。それを見ている私も茶々丸と同じ気持ちだった。

通夜まで日があったので、友人たちがみんな駆けつけてくれた。

通夜も葬儀も、親族はじめ、大勢の友人や仕事関係者、ご近所の方たちが集まってくださり、大きな告別式となった。

あまりに早く伸さんが逝ってしまい、あまりに私や私の家族に良くしてくれて、伸さんの親族には本当に何の恩返しもできずに申し訳ない気持ちで一杯になり、この席を借りて私は夫の親族の方々にお礼を言った。感謝の気持ちで一杯だった。

この葬儀までの間に私は参列した親しい方からゆっくりと2つのお話を聞かせてもらった。

一つは伸さんの子供の頃からの親友から。

「人はみんな生まれるときに、胸に時計を持って生まれてくるんだよ。それは誰にも見えない時計。でも初めからいつ止まるかは決まっているんだ」と言う。

「だからあいつの時計は、初めからここで止まるものだったんだよ。俺は昔、他の人からこの話を聞かされたんだけど、そうかもしれないって思うな」とご自身もかなり落胆しながら話してくれた。

もう一つは、懇意にしている方のお父さまから。

「ご主人が亡くなったと言うことは、奥方の人生もここまでと言うこと。潔く短刀で胸をつく様に昔なら嫁入りの際には短刀を持参したものだよ。今はそう言う形は無くなったけれど、あなたの人生はここで終わる。未亡人とは未だに死なない人なのだから、後の日々は余生と思って暮らしなさい」と話してくれた。

葬儀が終わるとこの2つの話が胸をうち、私の中の見えない時計もここまでか?とぼんやりした頭で考えているところに、母から、

「ミュージシャンの人で最近奥さん亡くした人がいたでしょう。その人ね、あと追って自殺したらしいよ」と聞かされた。

我が家にも父が大事にしていたピカピカのマタギの短刀があった。これだっと思って、その夜結構することに決めた。

しかしマタギの短刀はスッと刺さる様なものではなく、動物を殴って裂くものらしく、ケガをするばかりで死ねない。では、首を括るかな。とまた次の晩用意するが、紐が解けて死ねない。

そんな私の様子を心配して、弟が「ずっと食べてないでしょ」と言って、ビタインゼリーを持ってきてくれた。優しくしてくれて嬉しかった。

叔母や従姉妹もスープを持ってきてくれた。お隣の奥さんがミネストローネを作って鍋を抱えてきてくれた。

叔父は毎日、毎日、通ってきてくれた。

みんなの優しさが嬉しかった。

そんな中、代理店やスタッフから連絡があった。

「今度の撮影、どうするの?」

4日後に出張撮影が控えていた。

そこで一気に頭が仕事モードに引き戻された。

「先生、全く眠れないし、食べられないのだが、仕事の予定が差し迫ってきたので助けて欲しい」と言って、私は夢から覚める様にして向かいの病院へ向かった。

撮影はスタッフの協力で何とかうまく立ち回れた。その後はデザイン制作も進められ、仕事上はいつもの自分に戻って行った。

スタッフとの雑談で、2月にサイクリングコースに出かけたときに見た走馬灯の様な頭の中の映像の話をした。

「伸さんも見ていたのだろうか?それが死ぬ前に見る光景なのだろうか?」

「今となっては聞き用もなく誰にもわからないが、不思議な話だね〜」とみんなが言っていた。

ちょうどこの仕事モードに復帰する頃、私は弟に

「会社を継いで欲しい。それができないなら、しばらく落ち着くまでの間は一緒にやって欲しい」と頼んだ。だが弟は、家族で相談をしていたのだろう。言いずらそうにして重い口調で返事をした。

「姉ちゃん、前から言っていたけれど、今、女房が兼ねてから希望していた犬関係の会社を始めるんで準備をしていたところなんだよ。前々から、女房に言われていることなんで、そっちを優先しなければならない。だからこっちの会社のことはできないよ。

それから義叔父の借金とか、家とかの残務にも一切関われない。もう伸さんがいないんだから姉ちゃんもきっぱり手を引け。一人じゃできないんだから。泥舟には乗れない、みんなそう思っているはずだよ」

弟にはっきりそう言われて、涙が溢れてとてもがっかりしたが、同時にみんな家族もあることだし、仕方ないな。と踏ん切りもついた。何とか一人で乗り越えよう。誰も頼れる人はいないのだからと、私は自分にそう言い聞かせた。

伸さんのことで友人の税理士さんや司法書士さんがついてくれた。伸さんの妹は一切お構えなしと、承諾の印を押してくれて、事務処理はさっと前に進んだ。彼女は今でもちょこちょこ連絡をくれる。同性の姉妹・・・、妹っていうのも良いものだと最近はとても思う。

「社長が変わりまして」と、クライアントや代理店に挨拶に行くと、

「そりゃ、わかってるけど。何も変わらないよ」と言ってもらえた。ひとまず安心。

私も区役所に出かけたりして後処理を進めながら、仕事ばかりする毎日が続いた。スタッフは代わる代わる事務所に来てくれて助けてくれた。人間、一人じゃない。と、思った。

やっと落ち着いてきた梅雨のある日、大雨が降ったことで、三階に水漏れが生じた。またとても不安になっていると、時計の話をしてくれた伸さんの親友の従兄弟が工務店を営んでいることを思い出し、連絡をしてみた。元々、よく知った中だったので通夜や葬儀にも列席してくれていたSさんは年も同世代で、とても懐の深い良い人だった。

「これは屋上から漏れ出しているね」と言うので、屋上の吹き替えと外壁の工事をすることになった。時間の無い中、さっと工事に入ってくれてすぐに復旧できた。

仕事と自分のことで手一杯だった。伸さんが亡くなったことは義叔父の関係者にも伝えていたので、義叔父のことは何もせず、放置状態となっていた。

よく晴れた7月のある日、〇〇信用金庫から全額返金して欲しいと言う連絡がきた。

私は、伸さんと始めた新規事業がいくつかあり、その借財もあって財政は良くなかった。また仕事はいつも通りできるのだが、こう言った私用事への頭はまだ全く働かないままだったので考えを巡らせる事もできず、何となく応じることになってしまった。

義叔父が亡くなり、もうこれ以上のドン底はないと思っていた矢先の出来事だった。
もう私は何があってもこの時以上のショックはないと思う。そういう出来事でした。
しかし、ここからが本当の苦悩と恐怖の始まりでした。

https://indiesbunko.com
cnobu
  • cnobu
  • ルラックのクリエイティブmission blog 著者の 株式会社ルラック 代表取締役 紀中しのぶ です。
    どんどん大きな社会問題が浮上していく中で、クリエイター集団の「私たちにできること」をアイディアとして考えていく「仕事のアイディア」では、いくつかのビジネスプランニングが生まれています。デザイン力・企画力・技術力・長年培ってきたノウハウを、この小さい会社の経営者が全ての方に向けて公開していきます。
    「 しのぶ奇譚」では、私自身の体験談を記載していきます。七転八倒しながらアップダウンの大きな人生を歩んできました。この生き方が、誰かのヒントになったり、怖い体験では、ハラハラしたりと、少しでもサイトを楽しんでいただけたらと思っています。
    未来の素敵なニッポンへ、私たちと一緒に一緒に向かいましょう。